福沢諭吉のオモテとウラ
あなたは、1万円札を使ったことがありますか?
日本人なら誰もが使ったことがあるのではないでしょうか。
では、質問を変えましょう。
あなたは、福沢諭吉について知っていますか?
まさかとは思いますが、1万円札のこと、”諭吉”とか呼んでませんよね?
というわけでこの記事では、1万円札を使いたいなら最低限知っておきたい福沢諭吉の情報を、”オモテ”と”ウラ”に分けて、わかりやすく説明していきたいと思います。
福沢諭吉のオモテ
大学や研究機関をたくさん作った
慶応義塾大学を作った、というのは有名な話ですが、実は一橋大学や、東京大学医科学研究所、東京大学医科学研究所付属病院なども作ったのです。
一橋大学は言わずもがなですね。
東京大学医科学研究所とは、野口英世の師匠でもある北里柴三郎が院長をした、細菌の研究所です。
東京大学医科学研究所付属病院は、この研究所に付属する大きな病院です。
”日本学士院”の初代院長
日本学士院とは、文部科学省の特別な機関で、大雑把に言うと、選ばれし頭のいい人で構成される研究機関(現在は研究の要素は薄いようですが)のことです。
当時の定員は40人で、しかもその初代院長ということは、つまり頭がよかったということです。
”學問のすゝめ”を作った
皆さん大好き、”学問のすゝめ”を作ったのが、何を隠そう福沢諭吉です。
簡単に説明すると、民主主義や男女平等の考え方を広めたりしたものです。
初版が発行されたのが1872年(明治5年)ということを考えると、この本の凄さが改めてわかりますね。まだ西洋の文化が根付いてない時期に出版されたこの本は、国民の大きな道しるべとなったことでしょう。
それを裏付けるように、実はこの本、340万部も売れたそうです。当時の日本の人口は約3500万人だったので、単純計算で、およそ10人に1人がこの本を持っていたことになります。
ちなみに、これは有名な話ですが「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という名言には続きがあり、実際は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云えり」と書いてあり、言い換えると「”天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず”、っていうよね」というものです。
中央銀行の考え方を日本に伝えた
中央銀行とは、紙幣や貨幣を発行したり、貨幣の価値を安定させたり、銀行にお金を貸したり、政府のお金を管理したりするところです。
つまり超重要。
これは、諭吉がヨーロッパに渡ったときに勉強したそうです。
近代的な保険制度を日本に広めた
近代的な保険制度とは、みなさんにも馴染みがある、”みんなでお金を集めて、ピンチの人を助けてあげよう”というものです。
福沢諭吉は、彼の著書”西洋旅案内”の中で海上保険、生命保険、火災保険の3種類を紹介し、その後すぐに、その3種類の保険会社が設立されました。
まとめると、
福沢諭吉のウラ
ここからは、福沢諭吉に関する意外なといいますか、あの福沢諭吉も人間だったんだなと実感できるエピソードです。
小っちゃい頃から大酒飲みだった
昔は”お酒は20歳をすぎてから”なんて法律はありませんからね。
この法律ができたのは、1922年です。
若いときに禁酒をしようとしましたが、その代わりにと友達にタバコを勧められ喫煙者になり、しかも禁酒にも失敗し、結果ただ悪習慣がふえただけでした。
夏は全裸だった
夏は全裸でした。周囲の女性もドン引き。
めちゃくちゃないたずらっ子だった
結構な問題児だったそうです。
兄に、殿様の名前が書いてある札を踏むと罰が当たると言われ、神様ならどうだろうと、試す。しかもその後、トイレットペーパーとして使う。
神社に御神体として置いてある石を別のものと取り換えたり、飾られている札を取って捨てたりした後、神社で祭りが始まったのを見て、爆笑。
などのエピソードがあります。
あの1万円札の澄まし顔からは想像がつきませんね。
普通に嘘つきだった
福沢諭吉は結構、話を盛ったり、嘘をついたりする人でした。
当時の新聞では、ホラを吹くザワ、嘘を言う吉なんて馬鹿にされたりしていたそうです。
おまけ
新聞に天気予報を始めてのせた
大阪生まれ
1万円札の肖像は56歳
いかがだったでしょうか。これさえ知っていれば、堂々と1万円札を使えます。
人間もお金も”オモテ”と”ウラ”があって初めて人から愛されるのです。
ちなみに私は、1万円札使ったことありません。